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2020.01.25

【コラム】雑草魂で21年、感動をありがとう── 本学硬式野球部OBで元巨人・メジャーの上原浩治さん これまでの野球人生を讃える「引退パーティー」開催

鮮烈なデビューで、世の中を席巻した「雑草魂」

2019年5月、本学野球部31期の卒業生であり、元巨人・メジャーで投手として活躍した上原浩治さんが現役を引退しました。21年間のプロ野球人生でした。

その功績を讃え、本学硬式野球部OB会は「引退パーティー」を大阪市内のホテルで開催。パーティーにはOB会長の元近鉄・藤瀬史朗さんをはじめ、村田透投手(日ハム)、松葉貴大投手(中日)、菅原秀投手(楽天)ら約230人が出席しました。

上原さんが、巨人よりドラフト会議で1位指名を受けたのは1998年。その年には松坂大輔投手(西武)、藤川球児投手(阪神)、二岡智宏選手(巨人)、福留孝介選手(中日)ら注目の選手が多い年でした。

「雑草魂」という言葉と共に、プロ初マウンドにあがった上原さんの背中には、自戒の念を込めた「19」の背番号。これは、一度目の大体大受験に失敗し、浪人生活を送った19歳の悔しさと頑張りを忘れないためであったと後に語っています。

巨人の背番号19となった上原さんは、球界に鮮烈なデビューを果たします。ルーキーイヤーとなる1999年にいきなり20勝をあげ、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制覇。これにより史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成したほか、新人王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、沢村賞(20世紀最後)も受賞。大型新人として球界に強烈な印象を残します。

ちなみに、上原さんの「雑草魂」は1999年の流行語大賞に。その年の顔に、上原さんはなりました。

絶対的エースから、メジャーリーガーへ

巨人が日本一を果たした2002年は、上原さんにとっても輝かしい年となりました。自身初の200イニング登板を達成し175敗で最多勝を獲得、最高勝率も達成。その結果、沢村賞、ベストナインを受賞します。さらに日本シリーズ第1戦となった西武ライオンズ戦に先発すると、12奪三振・1失点完投勝利という快投で日本一に貢献。自身としては優秀選手賞を獲得しました。上原さんは“絶対的エース”としての地位を確かなものにしていきます。

翌年も好調を維持した上原さんは、2年連続で200イニング登板を達成し165敗、最多奪三振を獲得。ゴールデングラブを受賞しました。2006年には、初開催となる「第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の日本代表に選出され、エースとして32勝の好投で優勝に貢献。同大会で一敗を喫している準決勝の相手・韓国戦では、7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込むと同時に、大会最多となる16奪三振を記録しました。

日本での活躍が認められ、自身の夢が叶ったのは2009年。上原さんは海を渡り、メジャーリーグ(以下、MLB)「ボルチモア・オリオールズ」との契約に至り、球団初の日本人選手として迎えられます。「メジャーリーガー・上原浩治」は、アメリカの地でも背番号19をつけて奮闘しました。

上原さんが著書『OVER 結果と向き合う勇気』で語ったこと

その後上原さんは、「テキサス・レンジャーズ」「ボストン・レッドソックス」「シカゴ・カブス」とMLB4球団で活躍。先発からリリーフ、クローザーなどさまざまなポジションへの転向を課せられながらも、誰もが憧れる夢の球宴「MLBオールスターゲーム」に選出される選手にまでなりました。

2013年にはMLBで日本人初のリーグチャンピオンシップ、そしてワールドシリーズでの胴上げ投手に。2018年に日本球界に復帰すると、再び巨人のユニフォームに袖を通し、日米通算134勝、128セーブ、104ホールドという日本人初の「トリプル100」を達成しました。その偉業を果たした上原さんは、大体大時代に気づいた「自分を知ること」の大切さと、それを踏まえて編み出した独自のトレーニングを欠かさず重ねてきたといいます。

この他にもたくさんの賞や記録を残した上原さんですが、著書『OVER 結果と向き合う勇気』では、スポーツの世界で生きる後輩のためにともとれる、こんなメッセージを残しています。

<個人的には、「数字」を過大に評価するのは良くないと思う。(中略)その数字に内容が伴っているか、なぜそういう数字が評価されるのか、そこにもっと焦点を当てるべきなんじゃないか>

上原さんは、決して球速の速い投手ではありませんでした。それは著書の中でも語っていますが、大切なのは「球速が何キロだったか」だけを語るのではなく「(球速が遅くても)バッターにとって『速い』と思わせ『驚異』と感じさせることができるか」であるともいいます。つまり“数字では測ることのできない技術”が物を言う世界なのだと解釈することができます。

そのひとつの答えとして、上原さんはこう結んでいます。

<全員に当てはまる正解は、少なくとも野球には存在しない(中略)この自分なりの「正解」を見つけるために必要なことは何かと言われれば、何よりまず「自分を知る」ということである>

大体大野球部は、決して強豪校に名を連ねる学校ではありません。上原さん自身、引退パーティーの壇上で「みんなで全国大会でベスト8まで行ったのが思い出」と語っていましたが、優勝が狙えるトップレベルではありませんでした。

しかし、その環境に於いて“何をし、何を感じ、何を得るか”ということに、上原さんは誰よりも敏感であり誰よりも貪欲だったのだと思います。その前に「プロにいけるとは思ってもいなかった」上原さんにとって「野球を楽しくやりたい」というピュアな心のままに野球に向き合っていた、ごく普通の大学生だったのかもしれません。

インタビューでも「大学時代、自分で考えてできる環境だったから自分をのばすことができたんでしょうね。“やらされるのではなくやる”という環境が自分にはあってたんだと思います」と語っています。

そんな上原さんは、大学3年の夏に日本代表に選出され「第13IBAFインターコンチネンタルカップ」の決勝のマウンドに立ちます。その決勝の対キューバ戦では、5回と1/3を投げて1失点という好投をみせ、キューバの連勝記録を151でストップさせました。プロ入りを意識していたかどうかはわかりませんが、学生野球を謳歌した集大成ともいえる試合だったに違いありません。

「上原さんに憧れて」──受け継がれる大体大・雑草魂

本学の野球部は、決して恵まれている環境ではありません。基本的に専用グラウンドはなく、週に1度、大体大浪商高のグラウンドを“借りて”いる状態です、日々は雨天練習場をトレーニングの場にしています。

トレーニングメニューも、自主性に任せる環境であるのは確か。「しかしそれが自分にはあっていた」のだと語り、パーティーの壇上でも改めて「それがプロに入って活きていた」と懐古していました。

そんな環境下にあっても、本学野球部には第2の上原をめざす少年たちが入部を希望してきます。

この会場にも駆けつけた村田透投手(日ハム)、松葉貴大投手(中日)もそのひとり。

「上原さんは僕らにとって憧れであり、学校の先輩であることは誇りです」(村田透投手・日ハム)

「引退にあたり大々的なパーティーを開催してもらえる上原さんは、改めて偉大。自分もそんな選手になれるようにがんばりたい」(松葉貴大投手・中日)

また、現在本学で切磋琢磨している2名も次のような感想を口にしました。

キャプテン・坂井慎平(3回生)

「上原さんにお会いして、まず体の大きさに驚きました。『プロってデカいなぁ〜』っていうのが第一の感想です。しかも40歳を過ぎた方の体格とは到底思えません。自分は社会人野球の道に進みたいと思っているので、これからの野球人生に耐えられる体作りって大事なだと、上原さんを目の前で見て改めて思いました。

また、大体大は上原さんが話した通り自由な練習が文化。なので、必死にやる人もいれば適当にやる人もいる。自分はキャプテンをやらせてもらっているんですが、そうした意識の差に頭を悩ませることがあります。しかも『優勝、優勝』と目標を掲げて鼓舞しているつもりでしたけど、それも違うと思いました。要は、ひとりだけでも結果を見せて引っ張っていくことだってできる。明日からの練習……まずは自分自身の練習について向き合ってみようと思いました」

白井伸次朗(2回生)

「自分は広島の瀬戸内高校から上原さんに憧れて大体大に入りました。年代が違うので、本来であれば会うことなどなかった憧れの存在に、こうした機会で会うことができて素直に嬉しいです。そしてやっぱりすごく刺激をいただき、もう早く帰ってトレーニングがしたいですし、野球がしたいです(笑)

また『自分を知り、自分に必要なメニューを作り、自分のために野球をする』といった、考える方向性がわかった気がします。しっかり頭で考えて質の高い練習をして、これからも野球が続けられたら幸せですね」

白井さんは、憧れの上原さんを前に質問の機会にまで恵まれました。それに答える先輩の上原さんは、現役の野球部員からの言葉に嬉しそうであり、そして(頑張れよ)と心の中でエールを送っているような、そんな真剣な表情も見受けられました。

「これからはまったくの白紙」と語る上原さん

引退後は、ご自宅のあるアメリカと日本を行ったり来たりの生活を送っているという上原さんですが、これからの第二の人生については「まったくの白紙」であると、年末・都内で行われた講演会でも語っていました。

しかし著書の中では「自分が育てた子がプロに入るのを見てみたい」といった心境も見受けられます。そうした背景から、浪商学園・野田賢治理事長が壇上で「是非大体大の監督になってほしい」と熱いメッセージ。それに対し上原さんは「今は何がやりたいか、まったく浮かばない。来年どうしよう、というのが本音」とした上で「専用グラウンドを造ってもらわないことには、やる気はないです」と、冗談交じりに返答し笑いを誘う一幕もありました。

上原さんは、プロ野球の世界で多くの人の心に名を刻むスター選手となりました。しかしそれまでの道のりといえば、高校球児として注目されることもなく、本学には2度目の受験で入学したという、決してエリートではありませんでした。

奇しくも、上原さんが大事にしてきた背番号「19」と同じ数字となった「’19年」。上原さんはプロ野球生活に終止符を打つ決断をし、我慢と努力の象徴だった「雑草魂」を鎮めることとなりました。

しかし、大体大の雑草魂は未だその闘志の炎を絶やすことなく、ひとつでも多くの勝利と、少しでも上原さんに近づける我慢と努力を惜しんではいません。

上原さんが、名もなきひとりの学生選手から一流の世界をこじ開けたように、「第2の上原」をめざす若者たちのために、いつか上原さんが大体大に戻って来てくれたら素晴らしいことです。そうはならなくとも、上原さんが見せてくれた背中を誇りに、学生スポーツを謳歌できる体育の大学でありたいものです。

21年間の現役生活、お疲れ様でした。

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