筆者:長尾佳代子(スポーツ科学部教授)
宗教にまつわる学生の誤解
「宗教が異なると神様も異なり、それが原因で国同士が戦争をする」「キリスト教の神様はイエス・キリスト、仏教の神様はお釈迦様」…このような内容を「宗教学」の授業のレポートに書く学生が時々います。しかし、授業の受講後なのにそのようなレポートを書いているようでは合格点をつけられません。この文章からは宗教に関する深刻な誤解があることが窺えます。まずこれらの誤解を整理し、一つひとつ問題点を明らかにしていきましょう。私は仏教文献の研究者なので、仏教に関する話を詳しめに書きながら説明します。
宗教が違っていても共通する神を信じる場合がある
ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教では、共通の神を信仰しています。例えば、キリスト教の『旧約聖書』には神が世界を創造した話があります。これと同じ内容の話がユダヤ教やイスラーム教の聖典にもあります。ただ、同じ神について語っているものの、各宗教による解釈や信仰のスタイルには違いがあります。こうした違いを容認できるかどうかが異なる宗教間の相互理解にとって非常に重要です。
イエス・キリストは神ではない
イエス・キリストはキリスト教において「神の子」であり、『新約聖書』では頻繁に神を「父」と呼んでいます。イエスは神と同等であると見なされる場合がありますが、神そのものではありません。この微妙な位置づけは、キリスト教の教義や歴史に深く関わる重要なテーマです。
お釈迦様は神ではない
仏教ではお釈迦様は「悟りを開いた人」であり、神ではありません。お釈迦様が悟りを開いた際に梵天(ブラフマー)という神が登場し、彼の悟りの内容を他者に伝えるよう説得したというエピソードがあります。この「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」は、仏教が神々とどのように関係しているかを示す重要な逸話です。
仏教経典に登場する神々はバラモン教やヒンドゥー教の神々です。経典が中国語に翻訳された時、これらの神々は「天」をつけて称されました。梵天や帝釈天、弁財天や大黒天などの神々は、仏教経典にも登場し、仏教の守護神としての役割を果たしています。

インド絵画のブラフマー
「お釈迦様」とは何者なのか
「お釈迦様」は紀元前5~6世紀頃に実在していたと考えられている「釈迦牟尼仏陀(シャーキャムニ・ブッダ)」の日本での愛称です。「仏(陀)」は固有名詞ではなく、「悟りをひらいた人」を表す語であり、ほかにも釈迦仏や阿弥陀仏、薬師仏といった様々な仏がいます。日本語の「仏」の読み方である「ほとけ」の由来は不明なのですが、私が昔教わった先生は、中央アジアで「ブッダ」が「ホト」と訛り、それに「怪」の意味を持つ「け」が加わったのではないかと考えていました。
仏教では一つの世界には一人の仏しかいないとされます。釈迦仏は私たちが住む娑婆(サハー)世界の仏です。娑婆世界では、生き物は輪廻転生(りんねてんしょう)します。そして、苦しみから逃れることのできない輪廻の仕組みから解脱(げだつ)して仏になることを目指します。では、どのような方法で輪廻転生から解脱できるのでしょうか。輪廻の主体だと考えられている「我(アートマン)」には実体がなく、輪廻転生の世界は実は空っぽです。この「一切皆空(いっさいかいくう)」の真理を完璧に理解できれば輪廻から解脱できます。これが「悟りをひらく=仏になる」ということです。でもこれは実はかなり難しく、普通の人間はたとえ何度も生まれ変わりながら修行しても達成できません。そこで、後代の大乗仏教では『法華経』などのご利益のある経典の題目を唱えてショートカットする方法を編み出しました。阿弥陀仏の名前を唱えて極楽世界に生まれ変わり、有利な条件で修行して成仏するという方法には特に人気があります。

東寺の帝釈天像
用語を定義しないと議論が成り立たない
「宗教」とは何か――「神様への信仰」と考える人も多いでしょう。この定義は一部の宗教には当てはまるものの、例えば仏教のように神への信仰を重視しない宗教も存在します。そのため、「宗教」をどのように定義するかで、その捉え方や理解が大きく変わるのです。
早稲田大学で東洋哲学を学んでいた際、ある教授は「東洋にあるのは文化や習俗であり、宗教ではない」と断言していました。これは、「宗教」をキリスト教的な唯一神信仰として狭く定義する典型的な例です。
さらに、京都大学大学院で古代の宗教文献を研究していたとき、恩師である小林信彦先生は「教団の解釈を鵜呑みにせず、インド文学の文脈を踏まえて原文を読むこと」を繰り返し指導していました。小林先生はその態度を自分自身の研究で示し、空海が中国でサンスクリットを学んだという伝説を検証しました。空海の弟子が残したノートを分析し、空海の学習が文法の理解までにはいたらず、音声を単なる呪文として利用していたことを解明したのです。
小林先生は「日本に仏教は伝わらなかった」とよく述べていました。確かに、日本の仏教では、インドから中国に伝わった教義を正確に理解したり、戒律に基づく修行を行うことはなく、主に仏像の礼拝や儀礼の実施に重きが置かれてきました。この点を踏まえ、小林先生は「アルコールの入っていない酒が存在しないように、教義を学ばない仏教も存在しない」という持論を展開しました。小林先生の定義では、宗教には教義の理解が不可欠だったのです。
大阪体育大学の授業では
大阪体育大学の「宗教学」の授業では、学生が宗教学の魅力をより理解しやすくなるように、研究とは異なるアプローチを採用しています。たとえば、原文の読解が難しい場合には翻訳や解説を活用し、内容を絞り込むことで、文献研究が歴史的・哲学的な真理をどのように解明するかを分かりやすく伝える工夫をしています。
しかし、用語の定義や客観的な態度で事象を扱うことなど、学問領域を超えて科学的態度として重要な観点には注目を向けるようにしています。これにより、学生が自分の専門外の学問領域に触れ、「多角的に物事を思考・判断する幅広い学識」を身につけることを目指しているためです。
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