筆者:吉川 望(スポーツ科学部准教授)
1.大学で文学を学ぶとは
文学とは、言葉によって表現された芸術です。絵画を見たり音楽を聴いたりするのと同じで、小説や詩を読むことも、芸術作品を味わう行為だと言えるでしょう。「芸術鑑賞なら趣味で楽しめば十分では?」と思う人もいるかもしれません。もちろん、趣味として文学を楽しむことも、とても豊かで意義のある体験です。ただし、そうした趣味としての読書体験とは別に、大学で文学を学ぶことには、また異なる意味と価値があります。
2.耽読の魅力――「件」の不思議な世界
ここで、私が研究対象としている内田百閒という作家の短篇「件(くだん)」の冒頭を紹介します。
黄色い大きな月が向うに懸かつてゐる。色計りで光がない。夜かと思ふとさうでもないらしい。後の空には蒼白い光が流れてゐる。日がくれたのか、夜が明けるのか解らない。黄色い月の面を蜻蛉が一匹浮く様に飛んだ。黒い影が月の面から消えたら、蜻蛉はどこへ行つたのか見えなくなつてしまつた。私は見果てもない広い原の真中に起つてゐる。軀がびつしよりぬれて、尻尾の先からぽたぽたと雫が垂れてゐる。件の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、自分がその件にならうとは思ひもよらなかつた。からだが牛で顔丈人間の浅間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立つてゐる。何の影もない廣野の中で、どうしていいか解らない。何故こんなところに置かれたのだか、私を生んだ牛はどこへ行つたのだか、そんな事は丸でわからない。
牛の体に人間の顔を持つ件という奇妙な存在が、どこから来たのかもわからず、広い原にひとり佇んでいます。一語一語が的確で、目の前に不思議な情景が鮮やかに立ち上がってくる、これぞ芸術と言いたくなるような見事な描写です。こうした描写に触れ、思考を静めてただ読むことに没頭する――そんな耽読の時間は、趣味として文学を味わう上での最も贅沢なひとときです。
それでは、授業でこのような文学作品を扱うと、どのような経験につながるのでしょうか。次に、その一端を紹介したいと思います。
3.精読で深まる理解
実際の授業で、受講生に予習も兼ねてこの場面を絵に描いてもらったことがあります。すると、何人かは、件の体を白黒のまだら模様が入った乳牛(ホルスタイン種)として描きました。しかし、作品中には件を乳牛と判断できる記述は見当たりません。
ホルスタイン種は明治時代に欧米から導入されたものであり、これに対して件は江戸時代の瓦版にその姿が確認できる予言獣です。作中でも、件が予言をするかどうかが重要な要素となっており、伝承に見られる予言獣の件が素材として用いられていると考えるのが自然です。したがって、乳牛だと捉えるのは一つの誤読と言えるでしょう。
こうした誤読は、作品の背景や文脈に十分な注意を払わなければ起こりやすいものです。文学の授業では、文献にもとづいて事実を確認し、細部の描写に目を配って精読することで、作品世界がどんなふうに構築されているのかを理解していきます。それにより、奥行きや広がりを感じながら、より面白く味わうことができるようになります。
さらに、自分の知らなかった世界や価値観に出会うことにもつながります。件のような存在は現実にはいませんが、「なぜこのような姿なのか」、「自分はどこから来たのか」という件の不安や心細さに触れることで、自分自身の存在や感情について考えるきっかけになるのです。
4.文学が広げる視野
このように、大学で文学を学ぶこととは、まずは、芸術を深く味わい、鑑賞する力を身につけることです。そしてまた、自分の見方や考え方に揺さぶりを与え、新たな視点や想像力を得ることでもあります。
私たちが人生で実際に経験できることは限られています。たとえスポーツの世界で多くの経験を積んだとしても、それは人間の営みの一部にすぎません。そうした限られた経験を補う手段として、文学は、見たことも聞いたこともない人間や社会をまるで自分の経験のように感じさせてくれます。自己や他者、社会を理解する力を養うこと――それが、教養として文学を学ぶ意義のひとつです。
大学でスポーツを専門領域に選ぶみなさんには、その専門性を大いに高めると同時に、文学を通して広い視野をもって物事を考える力を育んでほしいと願っています。
【引用文献】
内田百閒「件」『新輯内田百閒全集』第1巻、1986年11月、福武書店(初出は『新小説』大正10年1月)
吉川 望(スポーツ科学部准教授)
専門は日本近代文学。内田百閒の幻想作品を主な研究対象としている。現在は特に、百閒の習作期作品における幻想性の萌芽のあり方に関心を持っている。担当科目は「文学」「日本語技法」「情報処理実習Ⅰ」。
関連サイト
○吉川望准教授
○大体大先生リレーコラム「本物を学ぼう」