TAIDAI CAFE

2020.08.19

スポーツの巨人が遺した月桂樹

 L号館前のロータリーのそばに、月桂樹が1本植えられています。大阪体育大学の礎を築き、日本の戦後のスポーツを発展させた巨人の功績を、月桂樹の前にしばし立って、しのんでみてはいかがでしょうか。
 大阪体育大学初代副学長で、1964(昭和39)年東京オリンピック選手強化対策本部長の故大島鎌吉氏の名が隣の碑に刻まれています。
 1908(明治41)年、金沢市に生まれ、関西大学の学生だった32(昭和7)年、ロサンゼルス五輪の陸上三段跳びの代表になりました。競技3日前に選手村の宿舎でガス風呂が爆発して全身に大やけどを負うも銅メダル。文武両道で学生時代から「跳ぶ哲学者」の異名を取りました。34(昭和9)年、大阪毎日新聞社に入社するとベルリン特派員として第二次世界大戦の欧州戦線を取材し、45(昭和20)年にはベルリン陥落を打電。ソ連(当時)兵に捕まりますが、シベリア鉄道でソウルへ、さらに飛行機で帰国を果たしました。
 東京五輪での大島氏の功績は日本にスポーツ科学を導入したことです。59(昭和34)年に開催が決まり、翌年、選手強化対策副本部長、64(昭和39)年に本部長を務めました。米国、ソ連、西ドイツ(同)から生理学、教育学などの大家を招き、前回大会を12個も上回る金メダル16個の獲得につなげました。

L号館前ロータリーのそばに植えられた月桂樹。石碑に「寄贈 月桂樹 第十回ロサンゼルスオリンピック三段跳び銅メダリスト 大島鎌吉先生」と記されている


 浪商学園の野田三郎理事長(当時)が大島氏と会ったのは、東京五輪前年の63(昭和38)年です。「スポーツの人 大島鎌吉」(中島直矢・伴義孝共著、関西大学出版部)によると、体育系大学の創設を目指していた野田理事長は親しい中沢米太郎氏(元五輪選手、後の岸和田市長)から「大島氏ならこれまでの体育大学にない、ユニークな大学設置に力を貸してくれるはず」と推薦され、東京で面談。大学設置の助言と副学長就任を申し入れると、大島氏は「これからの体育大学は企業との接点がないと発展が望めない」と主張し、「『大阪産業体育大学』として特色ある大学にすべきだ」と野田理事長らの意表を突く提案をしたそうです。
 提案通り、浪商学園は「大阪産業体育大学」の新設を申請しましたが、同時期に「大阪産業大学」新設の申請があり、文部省の提案で大学名は「大阪体育大学」となりました。
 月桂樹の隣の碑には、寄贈年月として「平成五年七月」と記されています。「スポーツの人 大島鎌吉」では、大島氏が死去の2年前の85(昭和58)年に語った言葉が紹介されています。「東京の自庭には立派に育った月桂樹が一本ある。これは、東京オリンピックの成功を祈念して、植えたものだ。その親木から、いずれ、挿し木分けして、関西大学=母校=と大阪体育大学の、キャンパスの一隅に、植えたい」。月桂樹は本学と、関西大学千里山キャンパスの総合図書館の前に植えられています。
 本学は創立50周年を迎えた2015年、大島氏の功績をたたえる大島鎌吉スポーツ賞を創設しました。

 大島氏は五輪精神の尊さやスポーツの価値を説きました。終戦後間もなく子どもに向けて書いた「オリンピック物語」では「世界中の青年をスポーツで結び親善と友好を促進するのが近代オリンピックの目的です」と書き、80(昭和55)年のモスクワ五輪ボイコットでは政府、日本オリンピック委員会に対しボイコット反対の論陣を張りました。

 新型コロナウイルス感染症の拡大で、東京五輪・パラリンピックが来年、開催できるかどうか危ぶまれています。プロ・アマ問わずスポーツの実施に大きな困難が伴っています。
 でも、例え五輪が実現困難になったとしても、五輪の根本的な意義や理念が揺らぐことはないでしょうし、スポーツができることの有難さや価値はコロナ禍であっても変わることはありません。
卒業後も多くがスポーツに接し、子どもや後輩たちにスポーツを教える大阪体育大学の学生が、大島氏の思想を知る意義は大きいと思います。
(広報室)
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